モノローグ

映画、本、アニメの感想。 その他、仕事、人生、家族についての独り言。

カテゴリ: 人生観

連日、吐き気と頭痛、筋肉痛のような全身の痛みが続いてる。

この不快感の中で、生きてる理由がどこにある。

この苦痛に耐えてあと30年生きた場合と、今日で終わりにした場合とで、何か違いがあるだろうか。

今日死ぬのと、今から30年前に死んでいたのとで、自分の人生に対する評価は変わっただろうか。

結局、誰の記憶にも残らない。

記憶に残ったとして、何の意味がある。

何かを思っても、すべて自分の主観でしかない。

自分の主観の中に、大切にしたいものが何もない。

出典:自分 
そんなことを考えていたら、たまたま以下の曲の歌詞を思い出した。


嫌になった運命を ナイフで切り刻んで
もう一度やり直したら キミに出会えないかも

どんなに運命が悲惨でも、もう一度キミに会うためだったら、受け入れる。

そんな意味だと思うが、
アニメ ソード・アート・オンラインを見たことがないと世界観がわかりづらいだろう。
仮想現実技術の発達した近未来、ただのオンラインゲームのつもりでログインしたら、
本当のサバイバルゲームに巻き込まれてしまったという話。

通常、オンラインゲームの中で死んでも、ログアウトされて現実に戻るだけだが、
このゲームの場合、ゲーム内で死亡することで、現実の肉体も死ぬことになる。

何の覚悟もないまま、このサバイバルゲームに巻き込まれた1万人のプレイヤーが、
唯一助かる方法はゲームをクリアすること。

約2年もの間、プレイヤー たちは仮想現実のゲーム世界で暮らすことになる。
命を懸けてゲームクリアを目指す者もいれば、
現実への帰還を諦めて、ゲーム世界の中で暮らして行こうとする者もいる。

引用した歌詞はおそらく主人公の少年の心境。

ゲームの中で大切な人と出会って、その人と生還することを誓う。

僕の声が響いた瞬間に始まる 命のリミット 心臓がカウントしてる
叶えても叶えても 終わらない願い
汗をかいて走った 世界の秒針は いつか止まった僕を置いていく
あと何回キミと笑えるの?
試しるんだ 僕を Catch the Moment

これはゲーム内での命がけの戦闘に対する心境だろう。
叶えても終わらない願いとは、生き残ることを指してる。

いつ死ぬかわからない状況で生きていれば、
当然、「あと何回キミと笑えるの?」と思うだろう。

ゲームの初番、自分のミスで仲間を失った主人公は、
この世界で大切な者を持つことを恐れている。

一個幸せを数えるたびに 変わっていく未来に怯えてしまうけど

愛情の種を大切に育てよう
分厚い雲も やがて突き破るかな
(中略)
何もないと思ったはずの足元に いつか深く確かな根を生やす

引用:LiSA Catch the Moment 歌詞より

・・・歌詞までそんなしっかり聴いてなかったけど、
よく読んだら、すごくいい歌詞だ。

ソード・アート・オンラインは、基本的には、俺つえー系のハーレムアニメである。
だから、現在公開中の映画「オーディナル・スケール」も観に行くほど興味は持っていない。
しかし、ところどころに挟んでくるエピソードは、
ベタだけどなかなか泣ける、面白いアニメである。 

DVD出たら、観ようかと思う。
 

前回の記事で書いたとおり、私も「生きている理由を失くした人々」のひとりだ。

毎日、何の理由もなく生きている。

寝る前に時々思うが、

このまま明日目が覚めることがなくても、何も後悔することがない。
むしろ今抱えている様々な問題からエスケープできて好都合だ。

と楽観的なことを考える。

私は基本的には楽観主義だ。
死んだあと、輪廻転生や無間地獄で苦しんだリ、
魂がどうこうされるとは思わない。
脳から意識が消滅して終了だと考えている。
そういう意味では寝ている状態と死んでいる状態は、
意識の有無だけで言えば、よく似ている。
一度寝て、そのまま死んでも、自分が死んだことにすら、
おそらく気付かないだろう。


話を戻す。

ヲタという言葉自体が差別的な表現なので、
アニメ熱狂者と言い換えておくが、
物事に熱狂しているときというのは楽しいものである。

熱狂の度合いが、世間体を気しないほど強くなり、
あらゆる行動のモチベーションの原点と言えるほどになれば、
「生きていく理由」にもなるだろう。

一般的にアニメ熱狂者の熱狂の度合いがどの程度のものなのかは知らないが、
少なくとも今の私にとって「アニメが生きていく理由」と言えるほどは熱狂していない。

それでも、死期を選べるとするなら、俺ガイルの結末は見たい。

私程度の熱狂ぶりでも、そう感じる訳だから、
本筋のアニメ熱狂者が毎日どれほどの多幸感を感じて生きているのかと想像すると、
うらやましくさえ思う。

同じ時代で、同じような環境に置かれても、
アノミー的自殺に追い込まれる者もいれば、
まったくその影響を受けていない者もいる。

この違いは何なのかと思う。

少なくとも言えることは、熱狂できるものがあるというのは、
生きていく上で、この上なく幸運なことだ。
 

40代男の独り身の死因は次の三つのどれかだ。

1.酒や薬に溺れて体を壊す
2.女やギャンブルで身を滅ぼす
3.自ら命を絶つ 

引用:不明、何かの映画のセリフ 
これには至極納得できる。

もう毎日の人生に飽き飽きしている。

結局、家族や子供でもいないと、生きていく理由など、すぐに失くなってしまう。 


人生、プラスとマイナスがバランスしている。

実際はマイナスの方が多いかもしれないが、
それでもプラスの方が多いと自分を納得させて生きている。

ところが、30も過ぎると、プラスが極端に少なくなっていく。
心の感受性が弱って、新しいことに興味を持たなくなるからだとも言われているが、
自分の場合は、10代、20代の頃よりも、30代の今の方が物事への関心は強い。

それでも、時々、色々なことが面倒に思える。
この諸々の面倒くささ、つまりマイナスとバランスするだけのプラスがあるだろうか?
と考えてしまう。

世界中を旅行したい、仕事で成功したい、10年後、20年後の世界を見てみたい、
そんな気持ちはあるが、

日々の諸々の面倒くささに耐えてまでそれを実現したいかというと、
そんな気持ちが微塵も湧いてこない。

人生を肯定できる態度を養いましょう。
ある人が言いました。
「人生がつまらないという人間は、つまらない人間だ」
これは真理です。同時に、面白い人にとっては面白いし、
成功する人にとってのみ、人生は成功なのです。

引用:アール・ナイチンゲール 
これにも至極納得できる。

つまり、自分はつまらない側の人間になってしまったということだ。

絶対に失敗しない方法は、成功するまでやり続けることである。

引用:エジソン

人生で成功なんてあるのだろうか?
そう考えても仕方なく、成功するまで挑戦し続ける必要がある。

生まれた以上、自己保存のために生き続けるのが生命の宿命でもある。

だから、人間が「生きねば」と使命感で生きている状態というのは、もはや異常な状態なのだと思う。

おそらく自然界なら、既に他の動物に捕食されるか、飢えて死んでいるだろう。

しかし、偶然生まれたこの時代、この国でなら、ただ生きていくだけなら何の苦労もいらない。

難易度ゼロのクソゲーのような人生を使命感で生き続けるという不毛なことになる。

当然、難易度は自分で設定できる。

結婚して子供でも作って住宅ローンでも組んでしまえば、35年間は生きてく理由に事欠くことはないだろう。

その難易度を少し上げたゲームの中で、諸々のマイナスを補うだけのプラスが見つかるかもしれない。

一方で、少し上げたつもりの難易度が、思わぬハードモードになってしまい、それが理由で死にたくなっている人も大勢いる。以下、記事参照。

中年男性の7割が「人生つまらない」…「普通の人生」に潰され、家族のためにひたすら働く

とは言え、この記事の中で、そもそも論で語られるルールなど、戦後70年ほどの間のルールであって、人間にとっては普遍的なルールとは言えない。

私は、長い間、これを個人的な問題だと思っていたが、デュルケームの「自殺論」によると、こういう状態はアノミー的自殺と定義され、社会的な問題と捉えることもできるようだ。

よって、生きがいを見つけるなどの主観的な解決方法でもなく、結婚して子供作ってしまうというようなゲームバランスの強制調整のような解決方法でもなく、現代社会の状況から必然的に生み出されている人間としての自然な感情だと思って甘受してしまうのも逆説的な解決方法と言えるかもしれない。
 

ブログアフィリの作業に取り組みたいと思いつつ、他の事に目移りしてしまって、一向に作業が進んでいない。

先週は無料faucetやポイントサイトなど、PTCサイトの自動化に取り組んでみたが、あまり成果は出なかった。

・トラフィックエクスチェンジのマクロを使った自動クリック
・ビットコインの無料faucetの自動クリック、jsを利用したマクロやボット利用
・カジノゲームのオートラン。マーチンゲール手法のシミュレーション

など。それぞれは個別のブログで記事にする。


ブログの更新もそうだが、IT業界で10年近く働いて来たが、web関連の技術や知識について、自分が相当に無知だと自覚する。新卒でSEになったが、プログラミングをやったのは、最初の3ヵ月間の新人研修のときだけだった。その後は、ドキュメンテーションやマネジメント、保守開発プロジェクトで既存のソースを数行直す程度の作業が続いた。その後、転職し、ITコンサルとしてオフショア開発のディレクションやパッケージソフトの導入支援を行ったが、やはりHTMLやCSS、JavaScriptなどをガリガリコーディングするような仕事ではなく、工程管理、テスト品質管理、納期や見積もり、人員管理、外注管理などが主体の仕事だった。そんな訳で、IT系と言っても、サーバーを弄ることもできなければ、ネットーワークを組むこともできない。web系のプログラミングもできず、javaやcでの商用アプリケーション開発もしたことがない。プログラミングそのものは、高校と大学で多少やったので、basic、c、fortranは使ったことがある。アルゴリズムも一通り学んだ。しかし、それ以外は座学での経験しかない。スキル証明がほしく、応用情報処理の資格を取ったが、その資格を持っていても、各技術についてどんなものかという概要や基礎的な仕組みを理解しているだけで、実際に何かタスクをこなせる訳ではない。

そんなサラリーマン時代のコンプレックスを思い出した。アフィリエイトについて勉強していると、webやネットワークに関することは当たり前のことのように出てくる。サイト構築、Photoshopを使ったwebデザインなど、素人でも趣味程度に普通にやっていることに驚いた。

余談になるが、アフィリエイト教材アンリミテッドでは、ブラインドタッチから説明されていた。著者いわく、アフィリエイトを始めたばかり頃はパソコンの電源の切り方すら知らなかったらしい。それでも半年後には、収益を上げることができるようになったと。

パソコンやweb、ビジネスに関する知識の量は千差万別で、何が平均かや、何が常識かは、まったく予想と異なっていた。人口のピラミッドの中で、トップ5%に入っていたとしても、その5%は数百万人いる。そして、その下には数億人がいる。自分がどの集団の中にいるかで、モノの見え方もまったく違ってしまうだろう。

ほとんどのアフィリエイターは月に5千円も稼げていないという。一方で月に百万円以上稼ぐアフィリエイターも大勢いる。両者の比は20:1くらいになる。どちらも大勢いる訳で、一体、自分はどちらに入れるのだろうと思う。

4時過ぎまで、カジノのルーレットを回していた。自動で数万回ルーレットを回す方法がある。それを使って、マーチンゲール手法の実証をしていたのだが、確率2500分の1(0.04%)で起こる事象は数百回単位ではしょっちゅう起こった。破産の確率を40万分の1(0.00025%)まで下げても、数万回程度の試行でやはり起こった。確率とはそういうものだが、運が良ければ、50万回試行しても、破産を免れるかもしれない。ゆえにギャンブルな訳だが。

アフィリエイトのため、カジノとビットコインのブログを運営している。
(ページ右下のリンク集参照)

アフィリエイトは、2016年の6月頃から始めた。
始めたと言っても、無料ブログを作り、
GoogleAdSense、Amazonのアフィリエイトリンクを設置した程度だ。

以前は趣味のブログとして、ひとつのブログにすべてのことを書いていたが、
記事に統一性を持たせるためブログを分けた。

このブログ「モノローグ」では、
アフィリエイトブログ作成の裏話、管理人のプライベートな独白を書くつもりだ。

管理人こと、私について、簡単な自己紹介をする。

私は、根は明るいが表面的にはモノクロな印象を与える。

言動は、大概にして大雑把だが、執着したことには長大な思考を繰り返す。
人に聞かせるのも酷なので、そういう場合は一人物思いにふけっている。

行動動機は、情緒的であることが多い。
しかし、物事の受け止め方は無情なほど合理的である。

最近のことだが、
2016年12月から、アニヲタになった。

俺ガイルやはがないを見て知ったが、
中高生にとって、一人でいることは、「ぼっち」と呼ばれ、
QOLを計る上で死活問題らしい。

私は小中高とそれなりに友達はいたが、
現在も連絡を取っている相手は一人もいない。

結婚についても、デメリットの方が目につき、それほどの動機を感じない。
今年の1月でアラフォーになったが、
そんな現状でも自分を孤独だと思うこともなければ、
それで何か不便を感じることもない。

つまり、独り身で友達もいない。

自己紹介としては、この程度でいいだろう。


ここからは記事を分けるべきかもしれないが、
自己紹介に関してのモノローグになる。

このブログを書き始めるにあたり、自己ブランディングがまだ定まっていない。そのような言い方をすると、ただのマーケティング的な話題に聞こえるが、一個人としてこのテーマを掘り下げて考えると、心理学・精神分析・哲学の範疇に考察が及ぶ。思えば、二十歳前後、このテーマで病的に苦しんだ時期があった。「アイデンティティの喪失」「アイデンティティ獲得の失敗」そのように呼ばれる心理状態だった。それから20年近く経って、再度、自分のアイデンティティとは何かを問うたとき、やはり当時と同じように明確な答えがない。しかし、言語化できないだけで確かにアイデンティティ を保持していることは感じるし、当時のように答えを出す必要性も感じないため、それがすぐに心理的苦痛となることもない。

この状態は、成長なのか、感覚の麻痺なのか。自分が何者なのかを問い続けることは、人にとって必要なことだろうか。人にとってというよりも、人生を意義あるものにする、人生を豊かにするという意味で、避けるべきではない命題なのだろうか。

結局、ブログテーマ、ブログタイトル、自己紹介、そういったものを考えているうちに、思考が脱線して、無駄なことまで考えてしまった。自己ブランディングはビジネス上の制約や目的があるため、アイデンティティに比べれば、定めやすい。アイデンティティも、人生に目的や必然的な意味があれば、きっと定めるのが簡単なのだろう。しかし、そもそも人間には、宗教的、哲学的価値感を無視してしまえば、生まれたから生きているだけであって、生まれて来た理由や生きていくことに必然性がない。だから、アイデンティティについても、いくら内省したところで自己の存在だけを根幹に据えては定義できない。社会の中で合目的に形成していくしかないものだ。そのことを前提とすれば、未だ自分が自己ブランディングやアイデンティティをうまく定義できないのは、社会との接点が少ないからなのかもしれない。

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